プレゼン研究室

第二章 CM業界A面、B面14)                            「プランナーの苦労と、その報われ方」

14)「プランナーの苦労と、その報われ方」 音楽プロデューサーのTさんへ

十年前、Tさんにピアノを弾いてもらったラジオCMが、今年度のACCでパーマネント・コレクションに選ばれました。永久保存、殿堂入りでっせ。

 ACCは、正しくは「全日本CM放送連盟」だったかな。ビジネスとしての大役を終えたCMが、広告表現の面から評価されるコンクール。僕たちCMプランナーにとっては、年に一度の運動会のようなもの。自分の作った可愛いCMが、がんばってテープを切ってくれると嬉しい。金一封が出るわけでも、給料が上がるわけでもないけど、クライアントに知らせると、「よかったあ!  あのCM、部長はいろいろ言ってたけど、オレは好きだったんだ。ザマーミロだよねえ」なんて、担当が言ってくれたりする。作業中の恨みつらみも恩讐の彼方へ。とりあえずは、戦友のような気になれるのがいい。

 今年度のパーマネント・コレクションの対象になったのは、’85年から’90年に入賞したCM。それらをもう一度見直して、CM表現の金字塔として今なお輝き続ける、ほんの一握りのものに与えられるのが、殿堂入りの名誉でありまして::。いいじゃん、たまには自慢させてよ。自分で言わなきゃ、だれも言ってくれないんだもん。「やったね」とか「おめでとう」とか言ってくれたの、スタッフ以外では三人だよ。多いと取ったらいいのか、少ないと取ったらいいのか。知らないのかと思って、よせばいいのに、「オレの、殿堂入りした」、なんて言ったら、返ってきたのはこうだ。「知ってる」。挨拶の仕方、教えてやろうか、おら。
 厳正な審査の結果、(どうも、「厳正な」とくると「警察官立会いのもと」という枕詞が欲しくなるが、寡聞にして知らない)新たに殿堂入りを果たしたCMはテレビ9本、ラジオ4本。先週の、表彰式のあと開かれたパーティーで、審査にあたった一人の方が、「投票で、あれが一番だったよ」と囁いてくれた。スゴイよねえ、五年間に日本中で作られたラジオCMのなかで、一等賞だったんだよ。こういう事があるから、広告ってやめられないんだよね。仕事で、こういうガッツ・ポーズものがあるのって、他にはスポーツ選手か、ミュージシャンか、作家くらいしか思いつかない。
 殿堂入りのニュースを聞いて、受話器を置いた時、CMを作ったあの頃をはっきりと思いだした。もう十年前のことになるんだね。予算が厳しくて、同じクライアントが作っていたテレビCMの音楽録音に便乗させてもらった。
「ちょっと、ピアノ弾いて欲しいんだけど::」と言って、音楽プロダクションのアシスタントをしていたTさんと、同じくアシスタントのOさんの二人に頼んだ。ゆび一本での弾き語り。「ソラ  ソラ  シミ  シミ::ミレド  ミレド  シミ  シミ::」。後で「日焼けをそのままにしておくと::」のナレーションを入れて、シミ・ソバカス防止用の化粧品のCMに仕上げた。最後の「すぐ付けるのがミソ」の「ミソ」も、歌が心地よかった。一人づつ弾いてもらったのを、二本ともCMに仕上げた。で、そのうちの一つを放送したわけですが、どちらを選んだかは教えてあげない。二人とも、自分が弾いたほうだと思ってた方が、ぜったい体にいいもの。
 あの時は、気軽に頼んだように見えたと思うけど、ほんとは、かなり重い仕事だったのです。宣伝課長じきじきの御指名で、僕の属しているグループにやらせてみようという事になった。すぐ上に、若くして「名人」の地位を確立した先輩がいたのですが、「ラジオはアイツのほうがウマイですから」と売り込んでくれた。「アイツのほうが」ではなくて、「アイツが」だったような気もするが、ま、いいや。都合のいいほうで記憶するのは、僕の特技。どちらにしても、売り込んでくれたからには、応えなくては男がすたると思った。それが、苦難の始まりだった。
 広告御三家と呼ばれるクライアントのひとつ。その時代時代の、最も優秀とされるクリエイターたちが作った広告群は、そびえ立ち、連なる山脈に見えた。提案までの十日間は孤独と劣等感との戦いだった。書いても書いても不安になる。かなりいい線いってるかな、というアイデアを思いついても、この五年間くらいのCM年鑑を開いてみるともういけない。これで賞が取れるか。賞など入って当たり前のクライアント。一等賞が取れるか。あの課長を唸らせることができるか。富士山を見上げる丹沢のような無力感。
 会社にいても集中できないから、家に持ち帰る。プレッシャーという奴は、やっかいなもので、いいアイデアを出そうとあせればあせるほど、脳ミソにある発想の出口に栓をされたようで何も出なくなる。思いついては、自分で打ち消してしまうことの繰り返し。「思いつき」は上手に温めれば「アイデア」に変わるのに::。あの時、そんな余裕はなかった。大丈夫、まだ一週間ある。今日はもう何も出ない。寝たほうがいい。体力を温存すべきだと、言い訳しながらベッドに転がり込む。すると、今度は目が冴える。モンモンとしたあげく、また机に向かう。睡魔が襲う。それを繰り返すうちに窓の外が明るくなってくる。自信とは、「大丈夫、あの時だってできたじゃないか」と自分を励まし続けられるパワーのことである。浮かんでくるのは、何ということだ。「あの時だってできなかったじゃないか」というニガイ思いの数々。
 翌日も、その翌日も同じことの繰り返し。ああ、思い出すだけで気持ち悪くなってくる。午前二時頃になると、モウロウとしてくる。知らないうちに、机に突っ伏して寝ている。意識が戻ってくる。頭をまわして窓を見る。良かった、まだ暗い。握ったままになっていたサインペンの先から漏れたインクが、原稿用紙に三センチくらいの輪を描いて拡がっている。毛細管現象のために、輪郭部分にいくほど濃い。きれいだなあ、と思ってしばらくながめている。まるで受験生である。叫び出したくなる。三十歳にもなって、何で受験生やってなきゃいけないんだよう。あん時は、こんなに苦しくはなかったぞい。答えはあったし、範囲も決まっていたじゃないかよ。CMは、何でもありだもんな、ズルイよ::。ブツブツ独り言をいいながら、ふと気付く。「そうだよ、何でもありなんだよCMは」。とにかく思いついたことは捨てないで、何でもCMにまとめてやろう。そうおもったら、楽になった。朝までに十本くらいのプランが出た。
 先輩に見せた。「うん、いいじゃない」と、ボソッとひと言。そして、とんでもない言葉を続けた。「ものすごい数のプラン、持って行こうよ。それだけでびっくりさせようよ」。新人のFにも書かせようという。こちらはノイローゼの受験生である。他意はないのかもしれないが、真意をかんぐる。オレのデキが悪いから、カーチャンは弟に期待することにしたんだ。被害者意識とコンプレックスがうずまく。もう知らねえかんな、不良になってもカーチャンのせいだかんな。
  それから提出期限までの五日間は、どう過ごしたのか覚えていない。ただ、ドーナツ状に拡がったインクの輪を、何度か見た記憶だけがある。できたリングの大きさで、どのくらいの時間寝たかが判るという特技まで身に付いた。
  パーティー会場で、当時の担当課長に久しぶりでお会いした。「おめでとうございます」と挨拶すると、「あの時は、このくらい持ってきたもんね」と言って、親指と人指し指で原稿の厚みを示した。確実に五センチはあった。二十秒のラジオCMは、原稿用紙一枚に納まります。いったい何本のプランを持って行ったのだろう。三十歳というのは、まだまだ、がむしゃらな青春がやれたんですね。
会場の後ろの方で、いろんなことを考えていたので、タレント賞を受けた和久井 映見さんとのツー・ショットのチャンスを逃してしまった。グヤジー。
  Tさん、あの時はありがとう。また、がんばってみようね。



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