プレゼン研究室

第一章 隣りのCMプランナー                         1)「恐縮ですが、コマーシャルです」  久米 宏様

 1)「恐縮ですが、コマーシャルです」  久米 宏様

 死者五千人という数字が、いまだに実感をもって想像することができません。五千という数字は僕が勤める会社の全社員数を上回ります。娘の小学校の全校生徒の五倍にあたり、暮れに書いた年賀状の四十倍。失われた命の数に圧倒されます。

 阪神大震災から一週間が経ち、テレビは避難所やテントでの生活を送る人びとの様子を伝えています。「いま、いちばん欲しい物、したいことは何ですか」との問いかけに、「下着が欲しい」「温かい食べ物が欲しい」「風呂に入りたい」「早く葬式をして仏さんにしてやりたい」。そんな言葉に接するたびに、自分の今までの価値観に大きな地割れが生じているのを感じています。

 自分にとって、大事なこと、さほどでもないこと、どうでもいいこと、それらをキチンと心の中に位置づけて生きていかねばいかんな、と。そしてまた、広告を職業としている立場としても考えさせられることがありました。

 地震当日のニュース・ステーションを見ていたときのことです。淡路島の避難所の様子をレポーターが伝えたのを受けて、久米さんは「では、恐縮ですがコマーシャルです」と言いました。僕には何かひっかかるものがありました。僕たちの作っているCMは、大惨事の前では恐縮して身を縮めながら見てもらわなければならないのか、といった心の動き方ではなくて、何だかCMがかわいそうな気がしました。司会者に「無神経なヤツです」と紹介されて、それでも立ちあがってあいさつしなくてはいけないときのような、やり切れなさを感じました。

 大事件のさいには、テレビ局にはCMを外して番組を続けられる契約がスポンサーとの間にあるはずです。でも、テレビ朝日はその決定をしなかった。そうであるなら、言い訳めいたことをアタマに振ってからCMを流してほしくはなかった。

 おそらく、久米さんの「恐縮ですが」には次のような心理が働いていたのだと思います。
「こんな時にまで商魂たくましくモノを売ろうとするなんて、なんとデリカシーのないスポンサーなんでしょうネ。CMをカットしない局の幹部も同類です。ボクはそんな連中とは違いますよ」

 久米さんの心の中は見えませんが、「こんなときにノー天気なCMを流してスミマセッ」という配慮の気持ちが働いたのは確かでしょう。何度もあったCMタイムの前に「恐縮ですが……」と付け加えたのはたった一度だけ。それは久米さんを久米宏たらしめているバランス感覚なのでしょう。

 久米さんの申しわけなさそうな表情のあと、CMがノコノコ出てきました。次々に流れてくるCMを見ているうちに、僕は不思議な気持ちに襲われました。助手席にエア・バッグを標準装備したフォードのCM。「思いどおりの子に育ってるわ」と竹下景子さんがほほ笑む殖産住宅「ホーメスト」のCM。寝るときのカユミを抑える大塚製薬のクスリ。剃り残しなしのシックのシェーバー。八段飾り、久月のひな人形。これらのCMからは、生活する人たちのさまざまな心の姿が見えてきます。

 助手席の大切な人の命を守りたいと思うこと。家を建てることを幸せの証と信じること。アンケートでアゴの剃り残しがいちばん気になると答えた若い女性たち。大きなひな人形を喜ぶ孫の顔が見たい、おじいちゃんとおばあちゃん。

 久米さんの「恐縮ですが」のコメントによって、僕は、大惨事の報道とCMが交互に流れる状態を意識的に体験することになりました。それは、被災した人たちの、昨日と今日の心の中を交互に見る思いがしました。アゴの剃り残しにおおいなる不満を感じること、孫の喜ぶ顔が見たいと思うこと、それが「幸せ」の実体なのかもしれません。

 一緒に組んでいる若いコピー・ライターが、先ほどこんなコピーを書きました。
 「今日は晴れ。時々しあわせ」



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