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ワークショップ、直前(明日です!)になりましたがご案内です!
トーストマスターズクラブのDistrict76(全国大会)で、ワークショップを担当します。
講演形式のワークショップです。
演題は「プレゼン:人を動かすコミュニケーション技術」
日時:5月26日(土)11:15~11:55AM
会場:クロス・ウェーブ幕張302号室
   千葉市美浜区中瀬1-3
詳しくはこちらまで⇒http://icfcctmc.web.fc2.com/


声に出して読みたい?

ずいぶん書くのを休んでいました。
ま、気楽に再開します。

「番組が流れた」と書いたままになったので、それの補足を少し。
じつは、京都や他の地方では予定通り流れました。
(制作会社のディレクターにどこどこの地方で流れたのですか?」と
たずねたのですが、京都や他の地方としか分からないとの返事。はぁ、そんなものなんすか?)
関東地方だけが、延期にならずそのままオクラ入りとなったとのこと。
DVDが送られてきた。
テレビはなんどか出ましたが、見るのはどうも落ち着かない。

さて。
今日は駅前にある老舗の書店に行った。
新書を2冊手にしてレジに並ぼうとすると、レジ前にワゴンが出ていた。
そこには文庫版の「声に出して読みたい日本語」(齋藤 孝著)が平積みされていた。

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TVの取材

「歴史を動かしたプレゼン」をTV番組の中で紹介したいという取材依頼が入った。
2分半ほどにまとめられるそうで、先日、出版社の会議室でインタビューを受けた。

フリー・トーキングはふつうに話せたが、
本を一般の人に勧めるメッセージを話してくださいといわれたとたん、
セリフを喋っているようで恥ずかしくなった。
他人が作った商品の宣伝は平気でできるのに、自分の本のプロモーションをするとなると妙に照れてしまう。

そのあと、ディレクター、カメラマンと同行して、僕も会員である「トーストマスターズクラブ」の例会の模様を撮影。
僕は「プレゼンテーションのワンポイント・レッスン」と題して、5分ほど話した。
ジャケットの襟にピンマイク、腰に発信機を付けて話した。
べつだん緊張するでもなく、カメラもとくべつ意識することもなく、ふだんのとおり話せた。

トーストマスターズに通って2年、このクラブの良さは、
楽しく例会に出席しているうちに、人前で話すことに場慣れすることだ。

本にも書いたが、企画を考えるのは好きだったが、
プレゼンすること自体は、じつは好きではなかった。
好きでなかったから、なんとか上手くなりたいとお手本を探していたら、
コロンブスや秀吉の水際立ったプレゼンに出会うことになった。

プレゼンは上手くなくて、自分ではそのことをコンプレックスにも感じていた。
ところが、半年ほど前、プレゼンの本を出すという話を後輩にいたところ
、意外な言葉が返ってきた。
「林さん、プレゼン上手かったですもんね」
もしかしたら先輩をからかったのかもしれないが、そんなことを言われた。

コンプレックスというのは、ごまかさないで持ち続けていれば、
宝物に変わる・・・・・今はそう思っている。

番組はNHKで放送予定ですが、日時は未定です。



白モクレン

 白モクレンが花をつけた。三日ほど前に見つけた。

 ベランダの、池と呼んでいるメダカの住まいに浸しておいた数本の枝の
ひとつにふたつの蕾がふくらんでいて、目にしたときには思わず声をあげた。

 池に枝を浸したのは12月の、たしか初め。
再開発のための遺跡調査がはじまり、
あの白モクレンの樹がある一帯も掘り返されるのかと気になっていた。
下は、去年花をつけたときのようす。

 これほど美しい白モクレンはめったにない。
器の模様のモデルにもなってもらった。

 去年の夏から秋にかけて、何回にもわたって下草が刈られるばかりで、
樹は残すつもりのように思われた。

 そして師走に入った朝、工房に向かう道から見たのは
むざんに引き倒された姿だった。

 「なんの断りもなく・・・」そんなことを口にした覚えがある。
工房に行き、剪定ハサミを持ち出して、枝を数本切った。

 すでに花芽がわずかながらふくらみかけていた。

 それをベランダの池に沈めておいた。

もしや発根するなら鉢に植えてやろうと思った。
花はまったく期待していなかった。

 枝を持ち上げてみても、今のところ根が出ているようすはなく、
ふたまわりほど小ぶりの白モクレンの花は、
冬眠から覚めたメダカが泳ぐ池の上で
春の光をはね返している。



石井慎二さんの訃報

別冊「宝島」を創刊した編集長で、宝島社の子会社・洋泉社の代表取締役社長の石井慎二さんが亡くなった。2月14日のことだそうだが、今日それを知った。

 僕の最初の単行本「CMプランナーの仕事術」(洋泉社’96年刊)は、石井さんとの出会いから生まれた。
 「CMプランナーの手紙」と題して広告の業界紙に連載していたエッセイがもとになった。本のあとがきには「宝島社の石井慎二氏から『本にしないか』というお話をいただいた」と書いた。それはウソではないのだが、大きな省略がある。僕が原稿を売り込んで、それに対して「本にしないか」という返事をいただいたというのが、正しい経緯である。ま、そうは受け取られないように、カッコつけて書いたのであるが……。

 いちど遊びにきませんかと言われて、宝島社を訪問したときには、出版の予定月や印税のパーセンテージも決まっていた。「それで良ければ……」という提示で、僕としては小躍りしたくなるような出来事だった。石井さんは、小太りで、飄々とした物腰だったが、メガネの奥の眼光は鋭かった。
 
 石井さんのことは宝島社の人、としか思っていなかった。本が出たあとになって、別冊「宝島」を創刊した人だったことを知った。僕が以前から持っていた単行本「出版界の仕掛け人」に、風雲児の一人として石井さんが紹介されていた。
 
 最近、「CMプランナーの仕事術」を譲って(売って)もらえないかという相談を受けた。すでに絶版になり、僕の手持ちも数冊しかない。古書はアマゾンに出ているが、3千円をこえる値段で二の足を踏んでいるとのこと。別のネット古書店に出ていた格安のものを紹介した。大学かどこかで教えているらしく、「教材として使いたい」という話だった。

 読みたい人がいるならと、こんど作るオフィシャル・サイトでは、この本の全ページを公開することにした。あとがきを読み直していて、石井さんの名前にひさびさに出会い、どうしておられるかとグーグルで検索してみた。新聞で見落としていた訃報が載っていた。まだ68歳。

 あの最初の本があったから、陶芸の本も書くことができた。著書があることが実績になって、陶芸の本の企画を持ち込んだ二社の両方からいい返事がもらえた。
 
 「CMプランナーの仕事術」を本にするにあたっては、じつはそうとうなエネルギーを費やした。石井さんが連絡をくれる前に、僕は34社に売り込みをかけた。来る日も来る日も出版社に手紙を書き(手書きしました!)、業界紙に書いた原稿の一部を同封して送り続けた。35社目で初めて連絡をもらった。それが石井さんだった。(これは初公開の打ち明け話!)

 「ウチの本のラインナップに、広告関係があってもいいなと思ったんですよ」初対面のとき石井さんはそう言った。本の企画と出版社との出会いは、「お見合い」ですね。めげずにお見合いを続けてめぐりあった一社。一社というより、ひとりの編集者です。たくさん来るだろう売り込みの中から、よくぞ拾い上げてもらえたものだと思います。

 石井慎二さん、ご冥福をお祈りします。



朝日チャリティ美術展

 全国の美術関係者が寄贈した作品を販売して、その収益を社会福祉事業にあてるという「朝日チャリティ美術展」の季節が巡ってきた。

僕にとっては、今年で12回目のチャリティ出品である。はじめて「御寄贈いただけますか」という手紙が舞い込んだのは、博多に単身赴任していた時代のこと。日本伝統工芸展に2回目の入選を果たしたあとで、僕は大喜びで寄贈した。

なぜそんなに喜んだのかというと、以前「陶磁郎」(10「名前の力」)に書いたので、ごらんいただければ、僕の性格もあわせて即座に理解いただけると思う。

今年は「おしろいばな黒釉丸皿」を出品することにした。

先ほど近所にあるクロネコの集荷場までクルマをとばした。ここで毎年、梱包を手伝ってもらっている。いちおう割れないていどにプチプチでくるんで持っていくのだが、「これじゃアブナイですね」と言って、その場で空き箱を調達して、いろんな梱包財を詰めてパッケージしてくれる。

梱包するのは、本来は「お客さま」の仕事のはずだが、機嫌よくやってくれる。こういう社員やパートの人の働きぶりを見ていると、「宅配便」というそれまでなかった事業を始めたヤマトの底力を感じる。社風というものは、こうした現場で働く人に色濃く現われるものかもしれない。

博多に赴任していたときは、朝日新聞の西部本社でも同様の催しをやっていて、東京と両方に出品していた。近所の郵便局に作品を持っていった。郵便局から物を送るのは初めてで、梱包は郵便局でやってもらえるものと思い込んでいた。紙袋にやきもの皿を入れて持っていった。窓口の若い女性の職員が、「では、お預かりします」と言って紙袋をどこかに持っていった。途中、紙袋が棚に当って「コツン!」と音がした。ヒヤリとした。

翌日、西部本社から電話があった。届いた皿が割れていたという。「こう言っては、なんですけどねぇ。ほかの方はみなさん、きちんと包装されて送って来られますよ」「・・・・」あのまま、皿をハダカで入れたままの紙袋を送ったんだ・・・・。

後日、賠償の話し合いがあり、すんなり全額が出た。郵政省の時代だから、とうぜん原資は税金からである。僕は、なにか嫌味をいった覚えがある。

□「第85回朝日チャリティー美術展」
□会期 2010年3/5(金)〜3/8(月)
□会場 東京 松屋銀座



うれしいメール

今日届いたメールには、おもわず「へぇ!」と声をあげた。
以下のような内容だった。

「御多忙の中、恐縮です。初めてホ-ムペ-ジを拝見しました。
つくる陶磁郎が休刊になって淋しくなりましたが、「焼きもの扮戦記」が楽しみでした。メ-ルマガジン読みたいと思っています。陶芸教室の開校を祝します」

ムダのない、簡にして潔な文面。住所が書いてあって、
福岡県遠賀郡岡垣町東高倉・・・・・おお、懐かしい福岡。遠賀郡といえば、たしか高倉健さんの故郷?地図検索してみると、高倉神社というのがある。健さんの本名はたしか小田だから、この神社から高倉の名をもらったのか・・・。

メールの最後にお名前があって、すこし離れて「83歳」。
メールができる83歳はかっこいいなぁ。

12年連載を書かせてもらった「つくる陶磁郎」(双葉社)が休刊になって、最後の原稿の末尾にこう書いた。

「49回目の「季刊・つくる陶磁郎」。この10数年というもの、季節が変るころになると編集部の竹見さんから電話が入った。「そろそろ次を・・・」この稿を書くことが習慣になり、身体にしみこんだリズムのようになっていた。急に止めるのは身体に悪そうなので、以後は僕のホームページに場所を移して、書き続けようと思っている。教室は、2010年桜の頃に開校する予定です。また、お会いしましょう」

この稿を目に留めてもらってメールをいただいた。25歳年上の人が、楽しみにしてくれていたのだと思うと、生半可なことしか分かっていない若造が知ったようなことを書きとばしてきた恥も忘れて、うれしくなる。

「つくる陶磁郎」が続いていれば、今月末には50号が出ていた。それに間に合うように新作の原稿とイラストを仕上げよう。読者に約束(勝手に!)したんだから。
ホームページ「寧日工房」の「つくる陶磁郎 単身赴任・やきもの扮戦記」 に載せることにしよう。

いま確認したら、19話までは載せているので、それ以降のバックナンバーも順次掲載してゆきます。
しばらく休んでいたメールマガジンも復活させよう。
そんな気になったのも、遠賀郡在住の83歳さんのおかげです!



雪の朝

 天気予報のとおり雪になった一昨日の夜。
一夜明けて、工房に向かう道からの眺めは・・・・雪原だった。

東京駅から30分のところにこんな広い場所が?
あるんです!
「フランスの田園」と勝手に名づけて気に入っている、なだらかな起伏の畑も、数年先には住宅地になる予定。29年前に越してきた当時から、住宅地になると言われていたけど何も変らなかった。現在は遺跡調査の最終段階で、こんどこそ人家が立ち並ぶことになるんでしょう。住宅もだぶついてるようだし、いっそ原っぱのまま残せばいいのになぁ。

遺跡調査の様子を見るのは楽しい。ブルドーザーが表土(関東ローム層)を1メートルほどはがしたあと、表面を手作業で薄く削ると、まさに象嵌の模様が現れる。水路、柱の穴、そうした昔の人が掘った場所には火山灰が入って黒土。他の部分は土本来の黄土色。作業する人たちが黒土をていねいに取り除くのを眺めるのは楽しい。

陶芸を始めたころ、象嵌が面白くて夢中になった。薄く削った瞬間に現れる色のみずみずしさに息を飲んだ。また象嵌をやってみようと思う。

昨日今日と、遺跡調査は休みのようで、地面は青いビニールシートに覆われたまま。作業が再開したら、天気のいい日に写真で紹介します。



「なごり雪」と「22才の別れ」

 暖かかったきのうの日曜日。世田谷区民会館のコンサートに行った。
NPO法人わんぱくクラブ育成会が主催するコンサートで、2回目の参加である。クラブの運営にかかわっているKちゃんから誘われて、去年初めて行った。Kちゃんは、学生時代に属していた油絵のサークルの2年後輩だ。

去年の出演は庄野真代さんだった。懐かしい曲が聴けて、また曲の間のお喋りも楽しかった。会場で会う約束をしたサークル時代の友人たち3人と30数年ぶりの再会。Kちゃんからは「Yさんと会うとすごくびっくりするかもしれませんよ」とメールで事前に言われて、なんだろうと思っていたが(まぁ予想はついていたが)、潔いタイプの頭髪の持ち主だったことが判明した。

さて、今年の出演はTMネットワークのメンバーだった木根尚登さん。スペシャルゲストは伊勢正三さんで、いきなり「なごり雪」をやられた。学生時代のBGMともいえる曲が続いた。「海岸通り」「22才の別れ」・・・。伊勢正三さんのライブを聴くのは初めてだ。開演直前に入ったために、今年も来ているはずの友人たちにはまだ会っていない。この曲が流れている会場で彼ら彼女らも聴いていると思うと、30数年前のいくつかの情景がよぎっていった。
 
伊勢正三さんのトークの中で出た次の言葉が忘れられない。
「『なごり雪』は、初めて作詞作曲したものなんです。その翌日に作ったのが『22才の別れ』です」
驚いた。あのふたつの曲が、たてつづけに生まれたとは。

コンサートのあと、去年と同じようにみんなと一杯やれるかと思っていたが、駅で解散。館山と行田の向こうまで帰るなら、しょうがないか。そういえば去年は土曜日だった。

※追記
学生時代のサークルの名前は、「やんぐいーぜる」。フォークグループみたいな名前が、いま書くとちょっと気恥ずかしい。今でもあるかと検索してみたら、35年経った今でもあった。「造形美術研究会やんぐいーぜる」だって。当時は「造形」ウンヌンは付いていなかった。いつの代だかに「カタイ名前のほうが就職の面接で有利なんじゃない?」とかの理由で付けたのではなかろうか。ブログをちらっと覗くと、油絵をガンガン描いているふうには見えず、アート関係が好きというだけの軟派のサークルらしい。

僕の時代にもヌードクロッキーや女子大との合同スケッチハイクをやるとなると、こんなに部員がいたか?というほど集まってきた(ま、そのひとりが自分であることは間違いないのだが・・・)。伝統とは、たくましくも、おそろしい。



隠れラジオ体操ファン

 隠れラジオ体操ファンである。
博多に単身赴任していたとき以来だから、もう15年近い年季が入っている。どこかに集まって、というのではなく、ただラジオを聴きながらの一人体操。朝体操できなかった日は、なんとなく身体にオイルが回っていないような、淀んだ感じが夕方まで続く。

指導員の紅一点、オカモト・ミカちゃんのファンである。ラジオの声でしか知らないから、オカモトは岡本だろうが、美香ちゃんか、美加ちゃんか、美佳ちゃんか定かではない。それほど若くはなさそうだが、声に底抜けの明るさがある。若くないなら、あの明るさにはなおのこと値打ちがある。

日曜日担当である。「はいっ、いっち にぃ さん しっ・・・」
ミカちゃんの号令に合わせて体操していると、自分が幼稚園児に戻ったようなトキメキ(言葉が違うような気がするが合っているようにも思う)がある。

僕がラジオ体操を始めたころだったと思うが、ミカちゃんではない別の女性が指導していた。声がヒステリックで、なんだか、収容所で女看守に命令されて体操させられているような、妙に反抗心がわく声だった。

それがミカちゃんに代わったときの歓びをご想像いただきたい。収容所から幼稚園へ。女看守からお姉さん先生へ、である。テープにまで録って、1日2本(回ではなく、本と呼びたい)の体操をこなしたりもするようになった。

当初元気一杯にはじけていたミカちゃんだが、どこからかクレームでも来たか、ややおとなし目の号令に変わった。それはそれで落ち着いたいい感じではある。望むらくは一ヶ月に一度くらいは、おもわずこちらがのけぞるような、あの声がひっくり返るチカラいっぱいの号令で、幼稚園児になりきって体操してみたいものである。

(オジサン向けの有料ラジオ体操というのは、事業化できそうな気がする。キイワードは「癒しと健康」。なんとなく風俗のニオイがしないでもないが・・・)



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